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ユニークな江戸時代のナンパ方法、色恋が盛んで性にも大らか

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ナンパの仕方やナンパスポットを追求していく中で、今回はナンパの歴史、とりわけ200年以上も安定した世の中が続いた江戸時代のナンパにフォーカスしたいと思います。

そもそも江戸時代にナンパは存在したのか?どんなナンパ方法だったのか?そしてお持ち帰りはできなのか?など、いろいろ疑問がわきあがってくると思いますが、資料や文献がある範囲内で調べてみたので、それを報告していきます。

江戸時代の恋愛基礎知識、色恋が盛んだった世の中

江戸時代の男女の出会いをイメージした写真

①江戸は色恋が盛んだった

室町時代後期から江戸時代に至る戦国時代は、日本全国で戦が広がり、餓死者や戦死者が多く、人々は必死に生きることを最優先としていました。人々も色恋にかまけていることは少なく、社会全体が緊張感のある不安定な時代を送っていました。

ただ、戦国の時代が終結し、江戸時代に突入すると、世の中は落ち着きを取り戻し、人々にも余裕が出てくるようになります。世の中安定すると、戦も少なくなり、人々も色恋にかまける暇が出てきます。

特に、色恋の主役である女性は、暇さえあれば近所の人や親しい人と色恋の話しに夢中になり、江戸の街はそこらじゅう色恋の話しで盛り上がっていたようです。

②比較的自由だった庶民の恋愛事情

武家のような上流階級では、親の決めたお見合い結婚が主流で、自分の好きな恋愛相手と寝たり、一緒になるということはほぼ皆無でした。

もちろん当事者もそれは承知の上ですので、わざわざ好きな人を娶ったり、嫁いだりするという発想も少なかったようです。結婚の日に、初めて相手の顔を見ることも珍しくなかったようです。

一方で、庶民は違います。お見合い結婚こそ主流でしたが、自由に恋愛を楽しみ、階級という制限はありましたが、同じ身分の者同士で恋愛を楽しんでいたようです。

また、浮気や不倫は最悪極刑だった江戸時代ですが、庶民の間では、浮気や不倫は日常茶飯事だったという記録もあり、歌舞伎や見世物小屋といった娯楽とあわせて、性生活は庶民の最大の娯楽だった可能性もあります。

③性に対して大らかだった農村地帯

江戸の都市部では、自由な恋愛ができたとはいえ、基本的に婚前交渉はNG。また、不倫や浮気も死罪にあたり、都市部での性交渉はかなり制限がありました(実際は浮気や不倫は多く、大方お金で解決される場合がほとんどでしたが。。。)。

あまりにも締め付けると、暴動が起きるため、そのためのガス抜きとして、吉原のような風俗街を発展させ、男性の性欲をそちらへ向かわせるよう誘導したのです。

吉原は高級風俗街でしたが、それ以外にも庶民が通えるような安価な風俗店はちょこちょこあり、元気のいい男はよく通っていたようです。

戦前まで続いた夜這い文化

そんな、性の制限がある都市部に比べ、農村地帯はかなり開放的だったと記録されています。例えば、夜這い文化が根付いているところであれば、お互いの合意さえあれば、男性が女性の寝床にかけつけ、求婚したり、情を通じたりします。

情を通じるということは、イチャイチャしたりすることで、近くには親もいるはずですが、親公認で楽しんでいたようです。

※夜這いは、明治に入り禁止条例が出て、廃れていきましたが、中国地方では戦前までこうした夜這い文化が根強く残っていました。

制約が厳しかった武士の恋愛

庶民に比べ、身分の高い武士ですが、恋愛に関してはほぼ自由がなかったといえます。しかも、身分が高ければ高いほど、こうした制約が強く、好きな相手と一緒になれる可能性は皆無だったといえるでしょう。

身分は低いですが、自由な恋愛ができて、性に対してもおおらかだった庶民のほうが幸せだった可能性もありますね。。。

④不倫は死罪!ただし。。。

江戸時代、不貞行為(不倫)は、「不義密通」として死罪となりました。ただし、場合によっては示談で解決できることもあり、その代わりに大金を示談金として準備する必要がありました。

また、庶民の間でも浮気や不倫は横行し、見つかった場合、運が悪ければ死罪になる者もいましたが、大方は示談金で解決していたようです。理由としては、妻や夫が死罪になるよりも、お金が入る方がうれしいと感じる者が多かったからです。

 

しかも、江戸の街ではそれだけ浮気や不倫が多く、中には「またやったのか」と呆れるだけの者や「よしお金がまた入る」と喜んだ者もいたようです(夫婦や友人同士が共謀して、被害者と密通したことを理由に金銭等を請求する美人局もこの頃は多かったようです)

農村地帯では夜這いが当たり前の時代ですので、庶民の間では今ほど不倫に対して、「絶対悪」という認識は低かったのではないかと考えられます。

江戸時代のナンパ方法、ユニークなアプローチが流行だった

江戸の人がナンパしているのをイメージした写真

ここでは江戸時代のナンパ方法について紹介していきます。現代は声かけが主流ですが、江戸時代はユニークな方法が主流だったようです。

①お尻をつねる

江戸時代のユニークなナンパ方法としては、街なかで女性のお尻をつねるというやり方があったようです。振り返った女性は、男性の顔をみて、いい男だと思ったらそこから恋に発展していき、興味がなければそのまま無視していくという流れです。

江戸時代では、このお尻をつねるというのは、「あなたに気がありますよ」というサインとして、共通認識されていたようです。そのため、特に「あなたに気があります」「一緒に御飯でも食べませんか?」と伝えずとも、お尻をつねることで相手に好意があることを伝えることができたのです。

 

現代では、完全に痴漢扱いされるので、そういった文化は明治以降(強制わいせつ罪という罪となる)は完全に廃れてしまいますが、江戸時代では、若い娘のお尻をつねる、触るというのは、相手に好意があるという風に捉えられたようです。

現代の男性にとっては夢のような話ですが、娘の親としては、気が気じゃなかったようで、街なかを歩く時は、わざわざ娘の後ろに親が立ち、こうした行為をさせないように、ブロックしたとの記録が残っているほどです。

②着物の袂(たもと)に恋文を入れる

ちょっとナンパとは違いますが、気のある人にラブレターを渡すという方法も女性にアプローチする有効な方法だったようです。

 

最近は、ラインやSNSの発展により、ラブレターを書くことは少なくありましたが、スマホが登場するまでは、好きな人にラブレターを渡すのが、相手に好きという気持ちを伝える王道のやり方でした。

そんなラブレター文化は、江戸時代も有効な方法として認知されていました。しかもその渡し方が粋で、そっと女性の袂にラブレターを忍ばせるというもの。こちらも、現代であれば痴漢扱いされることは間違いないですが、当時はこうした渡し方が流行の最先端だったようです。

ただ、実際にはそっと忍ばせるのはかなり難易度が高いので、直接ラブレターを渡したり、知り合いの人から渡してもらうこともよくあったそうです。

③逆ナン

幕府のあった江戸では、男女の比率が偏っており、男性が6割、女性が4割(もしくはそれ以上)で、かなりの男余り現象が起きていました。そのため、女性としては男性を選り取り見取りで選ぶことができ、気に入った男性を逆ナンしていたようです。

しかも江戸では、家庭を切り盛りするのは女性で、家計は女性が握っていることが多かったので、意外とお金を持っている女性は多く、逢引の仲介役を頼んだり、現代でいうラブホのような場所(出合茶屋)を女性が確保することも容易だったのです。

江戸時代の逆ナンする方法

現代の逆ナンといえば、居酒屋やバーのカウンターで、女性から男性に声をかけるというのがオーソドックスな方法ですが、江戸時代は女性が一人で飲み屋に行くというのはほとんどありません。ではどのように逆ナンしていたのでしょうか?

当時は物売りや出前が多く、家の前で野菜や魚を売る人もいれば、お店のお兄さんが出前で届けてくれるサービスがありました。

そんな物売りや出前のお兄さんの中に、お気に入りの男性がいれば、女性は男を家に招き寄せて浮気したり、身体の関係を持つ人が多かったようです。

江戸時代の逆ナンは、現代よりもずっとシンプルでしかも過激だったようで、男に飢えていた女性は、よく逆ナンして性欲を満たしていたようです。

 

性にもおおらかだった江戸時代は、男女問わず、欲情しては近くの獲物を、つまみ食いしようとちょこちょこ手をだしていたようです笑

江戸の若い男は、そんな性欲旺盛な女性に性を学び、セックスの手ほどきを学んでいたとされています。

こんなところも?江戸時代の定番ナンパスポット

ナンパしようとしている武士をイメージした写真

ここでは、江戸時代のナンパスポットを紹介していきます。

①盆踊り

江戸時代、盆踊りは先祖を供養する表向きと、男女の出会いを促進させる内実がありました。元々、先祖を祀る祭りとして室町時代を起源とされており、それが全国に広まった形です。

踊りは、性を開放する働きがあるとされ、祭りの後は若い男女は分別なく寝床が用意され、中にはここぞとばかりに行為に勤しむものもいました。

盆踊りでは、村や部落公認でナンパできる場所として、気になった女性がいれば、男性は積極的にアプローチし、女性をゲットしていたようです。

②海

海ナンパは、現代もナンパスポットの鉄板ですが、江戸時代においても同様にナンパが盛んな場所でした。ただし、今のように海水浴を楽しんだり、ビーチで遊びながらナンパをするのではなく、当時江戸湾で盛んだった潮干狩りの際に、ナンパが流行っていました。

江戸では潮干狩りが一種のレジャーにもなっており、品川の浅瀬で潮干狩りするのは、江戸市民の大きな楽しみの一つでした。

しかも、着物の裾をたくし上げ、潮干狩りに興じる女性は、江戸っ子にとっては、まさにムラムラする光景だったようで、絶好のナンパスポットだったようです。

③風呂屋

風呂屋も男にとっては、ナンパスポットとして外せない場所です。江戸時代の風呂屋は、入り込み湯と呼ばれ混浴風呂でした。

ほとんどの江戸っ子は規律を守り、不貞なことをしない人がほとんどでしたが、中には規律を破り、風呂屋の中でナンパしたり、不貞なことをする人もいたようです。

そのため、幕府はたびたび混浴禁止令を出し、改善するよう求めましたが、実際は水野忠邦が起こした天保の改革まで、混浴風呂が一般的な銭湯としての形態でした。

④水茶屋(みずちゃや)

『水茶屋』は、寺社の門前や道筋にあって、湯茶を飲み、一休みできるお店です。今でいうカフェのような場所で、お客さんにお茶や和菓子などを振る舞うところです。

水茶屋には、休憩している人がたくさんいますが、そのほとんどが男性です。では一体誰にナンパするのか?と疑問に思った方も多いと思いますが、実は目当ては茶屋娘です。

 

年齢も幅広い水茶屋娘ですが、特に人気があったのは美少女で、店にはそれぞれ看板娘の女の子が働いており、看板娘の良し悪し=水茶屋の売上にも直結するほど、水茶屋にとっては重要な存在で、わざわざ水茶娘を見にやってくる人も多かったそうです。

そんな水茶屋娘は、今でいう素人アイドルのような存在で、当時「茶屋娘見立番付」と呼ばれる水茶屋娘ランキングといったものまで作成されたほど人気がありました。

そして、そんな水茶屋娘を口説きにお店にやってくる人も多く、お目当てに叶えば、そのまま出合茶屋に行けることもあったそうですが、店の売上にも直結する茶屋娘へのナンパはハードルが非常に高かったようです。

⑤門前町

有力な寺社の周りには門前町として、店舗が建ち並び、さらにその周りにはたくさんの人が住んでいました。その代表格が浅草で、全国には同じような門前町がたくさんあったようです。

門前町には、料理店や楊枝屋(ようじや)など、いろいろなお店が出店していて、そこで働く女性は多く、今でいうストナンができるほど、人で活気づいていました。

また、門前町はそのまま寺社でデートができるといったメリットもあるので、江戸のナンパ師には外せないナンパスポットであったと考えられます。

江戸時代によくナンパされた女性

Edo Period

ここでは江戸時代の男性に好まれた女性のスタイルについて紹介したいと思います。

①江戸時代の男性に好まれた女性のタイプ

江戸時代の男性に好まれたスタイル

色白できめ細かい肌
体型はふっくら
細面
小さめな口
富士額
涼しげな目元
鼻筋が通っている
黒髪

平安時代から日本人女性は、黒髪で鼻筋の通っている女性はモテるというのは変わりないようです。また、この時代は肉料理が少なく、野菜を中心とした精進料理だったため、身長が低く小柄の女性が多かったようです。

ちなみに、江戸時代までは色白でふっくらした女性が美人とみなされ、今でいうぽっちゃりしたとした女性がモテていました。逆に、細身の女性は不健康とみなされ、あまりモテなかったようです。

その後、黒船の襲来とともに、欧米文化が入り、細身のスラッとした女性が美人であるという概念が日本にも伝わったのでした。

②よくモテた江戸時代のファッションリーダー

江戸時代の粧(しょう)、髪型、衣装などのファッションをリードしたのは、歌舞伎役者や格式の高い遊郭の遊女などで、色使いや着こなしなどで、インフルエンサー的な存在でした。

特に、17世紀に吉原で有名だった勝山(源氏名)は、美人でその上垢抜けたファッションは、道中姿を一目見ようと、道の両側にはたくさんの人だかりができました。そして、遊女はもちろんのこと、多くの庶民が勝山のファッションを真似たそうです。

ただし、この辺の美女になると、ナンパされるというよりは、人々から憧れの目で見られていたようです。

③茶屋娘

茶屋娘に関しては、江戸の定番のナンパスポットのところで紹介したので繰り返しになりますが、茶屋娘は庶民のアイドルとして本当にモテていたようです。

そして、本当にモテていた茶娘は、浮世絵のモデルになるほどで、江戸庶民のアイドルとなっていました。

つまり、茶屋娘にはアイドルの卵がたくさんいて、それを目当てに茶屋にお茶を飲みにいく男が多かったようですね。

江戸時代によくモテた男とは

Edo Period

①通人(つうじん)

通人とは、江戸時代中期に遊郭吉原で、当時流行った着物やアクセサリーを着こなし、しかも言葉遣いや立ち振舞に教養さも感じ女性からモテた人のことをいいます。外見だけでなく、内面に至るまで美意識を追求した人です。

吉原ではとにかく遊び尽くした人で、吉原の遊女からは評判がよく、一方で遊女にとっては都合の悪いことは黙って見過ごすといった「粋」さもあり、男からも女からもモテた人のことをいいます。

②ヤサ男

江戸時代、モテる男性は、色白で顔立ちが女性っぽい男性でした。

この時代、大工や火消しなど、ふんどし1枚で街中を駆け回る男性が多く、女性はありきたりな男性の肉体美には見慣れていました。そのため、逆に色白で、清潔感があり、女性のようにちょっとナヨナヨした男性のほうがイケメンとみなされ、女性からチヤホヤされていたようです。

③モテた職業

1、火消し

江戸時代にモテた職業は火消しです。火消しはその名の通り、街で火災があればすぐに飛び込んでいく、街のヒーローとして江戸の人から尊敬されていました。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた通り、華のある仕事として江戸では人気があったようです。

2、力士

江戸時代でも強い男性はモテていました。その代表的なのが、江戸の町民から人気のあった力士です。

力士は江戸で行われる本場所20日間(春・秋10日間ずつ)で、十分に食べていけるだけの報酬ももらっていたため、お金も持っていたのです。強くて、お金を持っている男性はいつの時代も変わりませんね。

3、与力

与力とは、奉行所に勤める街の治安などに勤める役人です。今でいう警察のような職業で、街で揉め事が起きた時には、与力が呼ばれ、解決のために双方の言い分を聞いたり、取り締まったりする役目です。

元々高い給与をもらっていますが、事件が解決した時には、謝礼をもらうこともあり、かなりお金持ちが多かったという記録が残っています。与力は頭がよく、お金もあって、当時はモテた職業の一つだったようです。

江戸時代のラブホテル、お持ち帰りで向かう先

江戸時代のラブホテルをイメージした写真

①出合茶屋(ラブホテル)

江戸時代には出合茶屋という現代のラブホテルがありました。要は密会できる場所で、多くは数奇家作りで、風情のある建物が多く、今のラブホテルのように、当時は派手で、斬新なデザインでした。

もし不倫がバレても、すぐに逃げられるように、裏口に緊急用の出口も作られていたとのことです。

 

そんな出合茶屋は、若者が利用するには少しハードルが高かったようです。現代の金額に換算すると、軽食がついて1人あたり1万円程度だったとのことで、少し贅沢する程度です。ちょっとお金を持っている商人がよく利用していたようですね。

ちなみに出合茶屋が多かったのは上野の不忍池あたりで、当時は出合茶屋以外にも「蓮の茶屋」「池の茶屋」と呼ばれ、おおむね人目をはばかる男女が利用していました。

現在も不忍池の南側には、ラブホが数軒建っていますが、江戸時代の人々は不忍池を見ながら、セックスを楽しむというの人々の娯楽の一つだったようです。

ちなみに不忍池の名前の由来は、てっきりお忍びデートから来ているのかと思っていたのですが、あくまで上野の東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)が建てられた際に、忍ヶ岡(しのぶがおか)と呼ばれたため、ここを「不忍池」と命名されたとの説が有力でした。

江戸時代のコンドーム

江戸時代にもコンドームはありました。ただ、当時はゴム製ではなく、動物の皮を使って男性器の上にかぶせ、避妊具としていたようです。根元部分には紐を通して固定していました。

ただ、動物の皮は高価で庶民は手に入らなかっただけではなく、使い心地が悪く、あまり良い評判ではなかったようです。

②寺社

寺社では、当時盆踊りが行われ、前述したように性を開放する場所としての位置づけ大きかったため、デートは寺社に行くのが一般的でした。

しかも寺社では、お金がなく出合茶屋に入れない若者が、イチャイチャするスポットでもあったため、大人の密会場所としても利用されていました。

寺社の茂みで男女がイチャイチャするのは、江戸時代の男女にとっては定番の遊びだったようですね。

③ひと目につかない茂み

東京は今でこそ大都市で、どこもかしこも道路や住宅で整備されていますが、江戸時代は茂みが多く、ひと目につかないところもたくさんありました。

他にも麦畑も人気があったようです。麦がベッドのようにふかふかしているし、麦で上手く身体も隠れるので、お金のかからないラブホでした。

そのため、発情した男女は藪や茂みでイチャイチャしたり、野外セックスを楽しんでいたようです。

自宅でヤると必ずバレる?

江戸時代の住宅は、上流階級の貴族や武士でない限り、ほとんどが長屋に住んでおり、横の音はほとんどが筒抜けです。

ただし、庶民の間では多少音がバレても、「今日も元気だねー」と、性に対する寛容な見方が大半だったようで、聞かれた方もさほど気にしていなかったようです。

 

ただし、密会ややましいことをする時は、出合茶屋を利用したり、お金のない人は、ひと目につかない茂みや川原でちょんの間(挿入して射精するだけの性行為)を楽しんだりと、場所を変えたりするといった工夫を凝らしていたようです。

まとめ

以上江戸時代のナンパ方法について紹介しました。

江戸時代は、性に対して大らかで、ナンパ方法も今では考えられない手法でしたね。また、女性も男性のナンパに対して、拒否感を示す人もいた反面、遊び相手としてふさわしいかどうか品定めしたり、まんざらではなかったみたいですね。

 

もっとも、今ではお尻をつねったりするナンパ方法は使えないので、注意してくださいね笑。ただ、当時のナンパの方法や男女のあり方について、学んでおくことで、現代のナンパや恋愛に生かせることもあると思うので、ぜひ参考にしてみてください。

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