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ナンパの歴史、市中では2000年以上も前から女を口説いていた男たち

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ナンパは、初対面または顔見知りの女性を口説いて、連絡先を交換したり、一緒に遊びにいくことですが、このナンパって一体いつの時代からあったのでしょうか?

女の子を口説く男というのは、いつの時代にも必ずいて、おそらく相当昔からいたのだろうというのは想像がつきますが、それが一体いつの時代からなのか?わかる範囲で調べてみました。

中国古代のナンパ事情、2000年以上も前からナンパはあった

春秋戦国時代の男女の出会いイメージ

①春秋戦国時代はナンパが当たり前

2000年以上も前、日本は縄文時代の後期を迎えていた頃、中国ではすでに戦国時代に突入しており、人口が激減するほど、戦に明け暮れていた時代です。

人々は国同士の戦争に巻き込まれ、いつ戦で死ぬかもわからない時代、娯楽も少なく、人々の数少ない楽しみは恋愛でした。

東洋史学を専門にしている早稲田大学文学学術院教授の柿沼陽平氏によると、大きな街であればあるほど、市中ではナンパは日常茶飯事で、美女が通れば、既婚者であっても暇つぶしに声をかける(ナンパする)のが一般的だったようです。

しかも、逆にイケメンが通ると、女がイケメンを取り囲んで逆ナンするといった文化があったそうで、男女の恋愛に対する熱意は相当なものだったようです。人間いつ死ぬかわからない時ほど、生きるのに必死で、できればいい遺伝子を残したいという本能が働いていたのかもしれませんね。

貴族にとってはナンパは日常的

貴族にとっても、同じくナンパは日常茶飯事で、街にでかけては美女がいれば声をかけていたようです。ただ、貴族の場合、半ば強制的となるので、貴族が通れば身を隠す女性が多く、同じナンパでもあまり歓迎されていなかったのではないでしょうか。

②三国時代にもナンパはあった

三国志で有名な三国時代。当時は男尊女卑の考えが強い儒教の影響が強く、特に男女の恋愛関係が厳しくなった時代です。

男女は、「手を握るのもダメ」「触るのもダメ」といった制約があり、さらには夫婦別室など、若者にとっては正直おもしろくない時代が続きます。

 

ただ、前出の柿沼教授によると、それはあくまで建前であって、人々の関心といえばやっぱり男女関係で、制約という観念はあっても、本能的には異性に関心がいくのは当たり前です。

中国は今でも上に政策あれば下に対策ありという言葉があるくらいで、おそらくこの時代も、権力者に隠れて男女の恋愛は旺盛で、隠れてイチャイチャしていたのではないかと思われます。

ナンパに関しても、見つからない程度で、市中はもちろんのこと、桑摘みや川で洗濯中の女に声をかけて、おしゃべりを楽しんだり、隠れてエッチを楽しんだりしていたのではないかと考えられます。

平安時代のナンパは、和歌のセンスで決まる

和歌を使った出会いのイメージ

さて、日本でもはるか昔からナンパはあったと思われますが、明確な記録として残っているのは平安時代からです。平安時代は、貴族が絶対的な権力で確固たる地位を築き、約400年に渡って貴族社会を築き上げていきます。

そんな平安時代のナンパの主役はもちろん貴族。そして、そのナンパ方法も貴族らしく風情のあるやり方だったようです。

①平安時代恋愛観・結婚観

まず平安時代のナンパについて紹介する前に、当時の貴族における恋愛観や結婚観を説明します。

平安時代は一夫多妻制で、妾は何人とろうがかまわなかったそうですが、正妻は一人と決められていました。そのため、正妻選びは慎重となる反面、妾は気に入った女性であれば、積極的にアプローチし、妾を3人、4人とるのは一般的なことでした。

ただ、平安時代の女性、特に貴族の女性は屋敷からなかなか出てこないので、現代のように、学校やお店で声をかけることもできず、事前の情報収集が必須でした。

②取次を通じて情報収集

ほとんど家から出てこない女性にどうやってアプローチするのか?疑問に思いますが、その重要な役割を果たしたのが、仲介人と呼ばれる取次達です。取次は、近臣や女房(にょうぼう)と呼ばれる女官達で、貴族男性は彼女たちから情報収集を行うのです。

そして、貴族の男性は、情報収集する中で、「○○家の娘は婚姻適齢機にあり、顔立ちがよく教養もある」という情報を掴んでくると、「よし!では○○家の娘にアプローチ(ナンパ)してみよう」となるのです。

③ナンパには和歌を使う

貴族の男性は、相手に直接には会えないので、その気にさせるラブレターを書く必要があります。そして、そのラブレターとは、当時は和歌(詩や短歌のこと)を送ることで、自身の持っているセンスをフル活用して、和歌を書くのです。

貴族らしい自分の感情を風情のある内容で書いているものもあれば、ストレートに「あなたとヤりたいです」とかなり犯罪チックな和歌など、さまざまな和歌が記録として残っています。

有名なのは、万葉集の巻頭を飾り、天皇が菜の花を摘んでいる女の子をナンパしている歌ですので紹介しておきます。

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籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも

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良さげな籠と道具を持って菜の花を摘んでいる娘さん、家を聞きたいので名乗っておくれ。この大和の国は僕が収めている国だよ。隅々まで収めているんだ。じゃあ私が(先に)家も名前も名乗ろうか

平安時代という絶対的な階級社会の中で、天皇が庶民の女の子に声をかけるのは、かなり意外ですね。まあ、天皇が庶民をナンパするくらいですから、ナンパ方法は違えど、今も昔も男が女をナンパするのは、世の常ということでしょう。

④女性が気に入れば寝床を共にする

貴族の男性は、和歌というラブレターや取次からの情報なども含め、女性から気に入られれば女性の家に行くことが許されます。そして、女性と朝まで3回寝れば、晴れて結婚できるというのが、当時のしきたりだったようです。

当時は、会うまでが大変で、和歌のセンスはもちろん、取次からの印象や、自己アピール力などが重要だったということですね。

戦国時代は強姦が多く、ナンパの暗黒時代だった?

戦国時代を表したイメージ写真

①強姦の多い時代

室町時代後期の戦国時代は、大名がこぞって野心を抱き、日本の覇権を狙って、日々戦に明け暮れていました。一般の庶民も戦いに巻き込まれ、城が落とされた時には、城下町に住んでいた女は足軽に強姦されることが多く、庶民でさえ知らない男にはこれまで以上に警戒心を持つようになっていました。

そんな戦国時代は、見ず知らずの男には、近寄らないというのが世の中の常識となっていたため、男が女にナンパするのは、相当ハードルが高かったと思われます。女好きの男には、出会いが限定されている最も暗黒の時代だったといえるでしょう。

②集落内での恋愛は自由だった

戦国時代は見知らぬ人とは口を聞くことの少なかった女性ですが、一方で同じ集落内での恋愛は比較的自由だったという記録があります。

この時代、分割相続から嫡子のみへの単独相続へと制度が移行する時期で、武士のような上流階級では長男が親の財産をすべて相続することとなっていました。

ただ、庶民の間ではまだまだ分割相続が根強く残り、女性であっても親から財産を相続(贈与)できれば、嫁入り道具(土地)として、財産を自由に使えることができたのできたのです。そのため、嫁入り後も女性の地位はそこまで低くなかったとみられています。

つまり、男性は、集落内では気に入っていた女性がいれば積極的に声をかけていたと思われます。

※もののけ姫のたたら場

もののけ姫のたたら場は、島根県の山奥をモデルにしているそうですが、たたら場は日本の古来よりの共同体社会が根強く残っている場所で、村では男性以上に働き、元気な女性がたくさんいました。

共同体社会は、母系社会の流れを強く残しているため、妻問婚や通い婚が一般的で、女性のほうが大切に扱われていました。

江戸時代は安定した世の中となり、ナンパの最盛期を迎える

江戸時代は200年続き、過去日本の歴史の中で、社会が最も安定した時代とも言われています。特に、江戸の街は色恋の話しが尽きず、女性は暇さえあれば色恋の話しで盛り上がっていたという記録もあるほどです。

そして、戦国時代に横行していた強姦の数も大きく減少し、庶民の間では再びナンパが盛り上がり、過去類を見ないほどの盛り上がりを見せることになります。

①ストナンが横行していた市中

江戸時代はかつてないほどストリートナンパが横行し、男は街中でめぼしい女を見つけると、あなたに気がありますよというサインを送っていました。そのサインというのは女のお尻をつねることです。

振り返った女は、もし気に入ればそこから恋に発展していくというもの。ただ、大半は無視したり、ナンパさせないために親が娘の後ろでガードしていたようです。

②お持ち帰りに利用されていた出合茶屋

出合茶屋とは、男女が密会するために利用されていた茶屋で、今でいうラブホテルです。数奇屋作りで、もし不倫がバレて旦那や妻に踏み込まれた際にも、逃げられるような緊急用の出口も設けられていました。

軽い食事もついていて、料金は現代でいうと、一人当たり1万円程度だったとのことです。

③江戸時代のナンパスポット

以下江戸時代の主なナンパスポットを紹介します。

江戸時代のナンパスポット

①盆踊り(盆踊りは男女の出会いを促進させる目的もあった)
②海(潮干狩りをしている娘を狙ってナンパする男が多かった)
③風呂屋(江戸時代の風呂屋は混浴で、不貞を働かないことは暗黙の了解であったが、風呂屋でナンパする人もいた)
④水茶屋(水茶屋の看板娘を狙ってわざわざ店に来る男も多かった)
⑤門前通り(寺社は待ち合わせスポットやデートスポットになっていたので、女が多かった)
⑥観光スポット(江戸時代は日本中の景勝地に旅行する女も多かった)

なお、江戸時代のナンパについては、別記事でさらに詳しく解説しているので、そちらも参考にしてみてください。

ユニークな江戸時代のナンパ方法、色恋が盛んで性にも大らか

明治民法の公布、ナンパにとっては暗黒時代の再到来

明治民法で女性が傀儡化されるイメージ写真

①家父長制の導入

1898年(明治31年)、明治民法の公布によって家父長制が制定され、これまで夫婦別姓だったのも夫婦同姓に変わり、夫婦別々に管理していた財産も、すべて一家の主である家父長(ほぼ男)に集約されることとなりました。

これは女性にとっては大ダメージで、今まで比較的自由に使えていたお金も、家父長制の導入で、すべて没収されることになりました。経済的に自立していた女性も、この制度の導入で一気に底辺にまで叩きおとされることになります。

②ナンパの暗黒時代の再到来

女性は、江戸時代から明治初期までは、経済的に自立していたため、もし男遊びがバレて離婚されても、お金さえあればなんとか生きていくことができました。

だからこそ、江戸時代の女性は強く、自由だったのですが、家父長制の導入後は、もし夫に離婚され、捨てられたりすれば、生きていけなくなるし、もちろん行く宛もなくなるので、従順に夫に仕えることこそが、女性にとって唯一の生きる道となったのです。

そんな社会の底辺となってしまった女性にとっては、ナンパされて男と遊んだり、逆にイケメンをナンパして夜遊びすることもできなくなってしまったのです。

その後、江戸時代のように、市中で暇さえあれば女の子にナンパしていたという男は少なくなり、戦時中、戦後とナンパ低迷期が続くようになります。

昭和の中期に入り、ディスコの幕開け

昭和のディスコをイメージした写真

①ディスコナンパ

1970年代に入り、アメリカのディスコブームが日本にも入ってきたことで、赤坂ビブロスや六本木メビウスなどの有名ディスコが立て続けにオープン。日本でも「ディスコ」という名前が定着し、バブルが崩壊するまで空前のディスコブームが到来したのでした。

そして、そんなディスコで流行ったのが、ナンパです。ただし、バブル期以前のナンパは、踊りが下手な人が上手になりたいという思いから、声をかけるといった別の目的がありました。ディスコに来ている女性は、ほとんどが常連で、踊りが上手かったからです。

 

それが、バブル期になると、ボディコンに身を包んだ女性が増え、いつの間にかお立ち台なるものが設置されるようになり、いまにも中が見えそうなスカートをはいた女性がディスコを席巻するようになったのです。

そして、店にはこうした女性をナンパするために、ギラギラした男性が増え、我先にいい女をお持ち帰りしようと高級車を乗り回したり、プレゼント用のバッグや財布などを持ち歩くようになりました。

②20世紀終盤に流行ったカーナンパ

80年代から90年代後半にかけて、車同士のカーナンパが流行りました。車に乗った複数の男性が、ナンパ待ちしている女性の車の横を通り、品定めをしながら、気に入った女性がいればナンパするというもの。

暗黙のローカルルールとしては、ナンパする時は「車から降りてはいけない」といったものまでありました。

そして、有名なカーナンパスポットは、千葉幕張の美浜大橋で、通称「ナンパ橋」とも呼ばれています。当時は、埋立地で人が少なく、道の幅員も広かったため、カーナンパの場所にはうってつけでした。

 

当初は、地元の若者の間で流行ったナンパでしたが、それがメディアで取り上げられるようになり、一躍全国的に有名なカーナンパスポットとなったのです。有名になれば、競合も増えるので、次第にナンパの成功率を上げるために、わざわざ高級車を購入する若者が増えたほどです。

他にも横浜の山下公園や大宮ソニックシティなどがカーナンパの名所でした。ただ、路上駐車の取り締まりや道路交通法の厳格化により、次第にこうしたカーナンパは廃れていくようになります。

なお、この頃デートカーで送迎してくれる彼氏は「アッシー君」と呼ばれ、タクシー代わりに利用されていました。また、食事を奢ってくれる彼氏は「メッシー君」と呼ばれ、バブル時代に生まれた用語として、メディアでたびたび使われるようになりました。

③伝説のナンパ島

バブル絶頂期、東京から南に160kmのところにある新島では、若者が遊ぶためのリゾート地と化していました。しかも、「ナンパ島」と呼ばれるほど、異性との遊びを目的にやってくる人が多く、島中がナンパスポットと化すほどでした。

朝になると、海岸にはコンドームがたくさん浮かぶほど、野外セックスを楽しんだり、ワンナイトを楽しむ男女が多かったようです。ただ、このナンパ島と呼ばれるのもバブル絶頂期のみで、バブル崩壊後は一気にこうした遊びも衰退し、今ではその面影も全く残っておりません。

ネットでナンパする時代へ、マッチングアプリの登場

ネットでの出会いをイメージした写真

①ネットナンパ

インターネットの時代に突入すると、ナンパは実際に会わなくても、ネットでできるようになりました。婚活アプリ、恋人探しのアプリ、セフレ探しのアプリなど、種類もさまざまで、特に遊び系のアプリを使えば、ネットでもナンパしやすくなります。

しかも、ネットは顔が見えないので、イケメンでなくても、声掛けが上手くなくてもできるというメリットがあります。ネットナンパは、インスタグラムやフェイスブックなどのSNSを使ったやりとりになるので、プロフィールを充実させたり、こまめに気を使ったりすることで、相手から好感を持たれやすくなります。

ネットナンパはこれまでのナンパとは全く違ったスキルが要求され、これまでの常識を完全に覆す出会いのツールとして、現代っ子には重宝されています。時代とともにナンパの手法も大きく変わっているのです。

②相席居酒屋

現代はネットナンパ以外にも、従来型の海ナンパ、ストリートナンパ、バーナンパなど、多種多様なナンパをすることが可能です。

他にも相席を専門とする相席居酒屋やまるでヨーロッパの宮殿をイメージした高級ラウンジなど、さまざまな出会いの場をセッティングするお店が人気を博しています。

③シーシャバー

近年、中近東を発祥としたシーシャが日本でも爆発的に広まっています。シーシャは一度水でろ過するため、女性にも吸いやすいとあって、女子率の高いお店が多いです。バーやパブと並んで、シーシャバーも最近のホットなナンパスポットとして、注目を集めています。

まとめ

以上ナンパの歴史についてお伝えしました。

ナンパという言葉自体は最近作られたものですが、男が女を口説くというのは、2,000年以上も前から積極的に行われてきたことがわかりました。

しかも時代時代によって、そのアプローチ方法も変わっていくというのは興味深いですね。ただ、いつの時代も男が女の尻を追っかけるというのは、変わらないうことでしょうか。

ここでは、あくまで中国の古代までしか遡っていないですが、もしかしたらそれ以上前から、ナンパの原型となることはされていた可能性は十分にありますね。

また、時間があるときに、調べてみたいと思います。

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